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十界論 (生命の差別化の原理)

始めに 地獄~修羅

貴方の命の中にある地獄(苦しみ)の世界 略して 地獄界といいます

1)地獄界 → 苦しみにしばられた(拘束)最低の命、生きることが苦しみ。
          (時間が遅い)本質はいかり(怒り)
           心身共にこの怒りが占領してしまい、他に余裕がない
           


2)餓鬼界 → 目の前にある欲望の命 欲望が満たされずに苦しむ命(物質欲 所有欲 
          食欲 性欲 その他) しかし 悪いとは限らない 
         欲望が無ければ医療や文明の発展もないからです) 本質は貪り(むさぼり)
         
         この欲望は悪いと決め それを絶つために 様々な修行をしている僧侶がいますね
         それがいかに的外れか 荒行等をする 修行僧
         智慧によって煩悩を正しくコントロール(制御)するものです
         これを専門用語で「煩悩即菩提」といいます。 
         
         修行しながら死んだ僧侶を生き仏だとか 笑っちゃいますね ただの餓死者です
          東南アジア諸国の小乗教の僧侶は 日本の生臭坊主とは違い
         財産を持たない 酒も女もバクチもやらず 質素な生活に欲望はなく
         回りから尊敬されています 着る物 履物 皆同じ
          しかし 自分の成仏のみを願う 自己中です 模範的な生き方ではありません
          性欲を絶つため 性器を切り取る僧もいます 笑っちゃいますね 
         政治経済にはかかわらず ごく珍しく行動を起す僧がたまにいますが
         あ ダライラマ(チベット)は迫害されたから反発したのですね 
                                             
                 私の勝手な話
                 チベット仏教はとにかく僧侶が多過ぎ 一家に一人僧侶が居る事は名誉だとか
                 1949年つまり中国革命の年、人口130万に対し僧侶は40万
                 20世紀には男の半分以上が寺にいたことになる。ところによっては3分の2
                 皆 働かない 男の出家が多すぎたために女の半分は余っちゃた。
                 男女差別 バランスが悪い ダライラマさん ノーベル平和賞???
                 持ち上げ過ぎ ペキンダック食って 指導は浅い言葉
 
                 私の勝手な脇道
                 男女差別反対でーす 仏教の経典には
                 「女人は地獄の使いなり よく仏の種子を絶つ 
                 外面は菩薩に似て 内心は夜叉の如し」とあり 確かに男女差別でしたが 
                 釈迦は 法華経で男女差別を撤廃しました  それなのに何故でしょう
                 すなわち 法華経以前の経典を用いているからです 
                        
                 チベット仏教も 東南アジア諸国の仏教も女性の僧侶はいません 
                 生まれ変わって 男に生ま変わらなければ成仏しないのです 
                         
                 幸い 大乗教の日本には男女差別ありません尼さんもいます よかった 
                 でも 今でも女人禁制の山ありますよ 昔は 富士山だって 立山だって 
                 女は登れませんでした
                 又 念仏で往生するといわれる 阿弥陀のいる極楽には女性がいないんですよ
                 女性は極楽に行くと 皆男になっいちゅあうんです 
                 私にとっては地獄です そんな所絶対行きません 
                 「南無阿弥お陀仏」は嫌いです …?ж・к   
                 何故か
                 阿弥陀仏も極楽も釈迦の空想の産物だからです それと同じように
                 地獄が地の底にある と言うのも 極楽が西の彼方にあると言うのもウソです 
                        
                 当時のインドでは悪人も多く 無学 無知の人達が多くいました
                 そういう人達に 先ず 悪事を止めさせる事が大事です やむ負えなず 
                 悪事を働くと (地獄へいくぞ)と得いたのです
                    
                 仏を信じない 無知 無学の人達には 真っ赤に染まる夕焼けの彼方に 
                 理想の地(極楽I)がある と言って 仏道心を起させたのです  
                 緊急避難的な方便(真実に導くための ウソだったのです
                        
                 危ない道路で遊んでいる幼児に 皆 (ガリガリ君上げるぞ)と
                 嘘を言って 幼児達を非難させるようなものです
                 南無阿弥陀仏…?ж・いくら唱えても 極楽に行けるわけありません
                 極楽なんて無いんだから   ああ 日蓮が 
                 「中略・・・委細に尋ねれば 地獄と言うも 極楽と言うも我が5尺の身の内に見えて候」   
                 そうそう 自分以外に求めるのを「外道」  
                 自分の中に求めるめるのを「内道」と言うのでしたっけね
            
                 余談をもう一つ 
                 西郷隆盛の言った事だが
                 「命もいらず 名もいらず 官位も金もいらぬ人は 仕末に困るものなり」 とか
                 こんな欲のない人いるのかな こんな奴と付き合うの大変そう 確かに仕末に困る
                 欲は適当に持ってください いや 大いに持ってこそ進歩があるのです
                 しかし コントロールできなければガメツイ餓鬼道に陥るので要注意
                 ガンジーの言う 道徳無き商業 も 餓鬼道に陥るので要注意


            又余談 今 アメりカのトランプ新大統領の話題が多いですが 彼はこの餓鬼界です
           
      判断の基準が 「損か得か」「好きか嫌いか」です
                 普通「の人は もちろん損得を考えますが「道理に反していないか 正義か悪か」
                 等も考慮するものです 欲望にも 理性が働きコントロールします 
                 彼にはそれがない  非常に危険です 甘く見ていると大変です
                 世界的規模で 大変な時代が やってきました
                 アメりカだけでなく 社会的背景の乱れを考える時が来たと思います
                 人間の問題を考えなければならない時が来たと思います    
                                        余談はきりが無いので おわり


3)畜生界 → 目前の利害に理性が働かない本能で動く動物のような命。
          (弱肉強食 )本質は愚か(おろか)対照的に(賢い)は人
               (畜生について て更に詳しく書く予定です)
               ここは 詳しく書かなくても 誰でも分かりますね
           
           畜生は恥を知らないんですね 恥を知らない人間は畜生です 
           畜生は明日の事考えないんですね 同じように目先で動く人は畜生界
           ちょっ待って そんな人間より
           冬のために せっせと食料をため込むシマリスの方がましでないですか
           
           畜生は喧嘩の強いのがリーダーです 暴力をふるう人間は畜生界ですね 
            となると 戦争は餓鬼界と畜生界と次に説明する修羅界の人々の成れの果て 
           地獄を作ります 本質は愚か(おろか)です・・納得です
           ちょっ待って うちで飼っている 猫の方がましだ(賢い)喧嘩しないからね


4)修羅界 → 驕(おごり)り高ぶる命 常に他人に勝ろうとする命。
          小さな自分を隠して偉そうにしている人 エゴイズムの正当化
          争いを「修羅場のような」とか ここからきています
          少し 自我意識が芽生えた 支配欲 征服欲 自然破壊等も 本質はへつらい
          偉そうに尊大ぶっている人が 真実がばれると 急に小さくなり 
          臆病になった例 ありますね
          
          修羅とは阿修羅王の事です 帝釈天との戦いに破れ 尊大ぶっていた修羅は
          帝釈天に真実を見抜かれ 小さくなったて蓮の葉の裏に隠れたのです
          
          注・・・葛飾柴又の帝釈天にお参りする人 真実を見抜く帝釈天ですよ 
              貴方の真実を見透かれないように 注意しませう  #・☆、△m?vg・・・
          (更に詳しくは後で)


 この四つを四悪腫と言います  ちょっと字が違うかも 
「安心して下さい」 どんな聖人君子と言えども この四つの命はあるのです
隠れているのです 潜んでいるのです 縁により出てくるのです

次に~天まで
5)人界 → 穏やかで平静な理性の働く人間らしい かなり自由な命。本質は平(たいら)
           
6)天界 → 物心さまざまな欲望が満たされて喜びに浸る命。
        宝くじに当たったとか 有頂天になる (時間が早い)
        自由な命に見える 本質は喜び 本当の喜びとは違い 空しさが漂います
        要注意です 天は簡単に崩れ去るおそれがあります
              (更に詳しく書くから ちょっと待って 先を急ぎます)

 人界と天界は(自由)と言ったが それは 深く考えると 外から与えられた部分が多いのです
だから かなり自由 とか 自由に見える とか言ったのです
  これは本当の自由とは違います この先でご説明しますので 少々お待ち下さい

 この六個の命が出たり入ったりで一生終わる人を 
俳諧老人とか 夢遊病者とかで たとえました
 大変な介護をしている方々に 「たとえで使うな」って怒られるかもしれません すいません
 これらの人達はこの六つをぐるぐる回っているから専門用語で(六道輪廻)と言います 

 生命の破壊は地獄界
 少しばかりの欲求を満たそうと徘徊する(我)は餓鬼界
本能的に執着する心は畜生界
 勝敗のみにこだわる利己心は修羅界と言えます

 やっと最高の天界に上り詰めたと思っても 要注意です
 直ぐ崩れ去るのです 地獄まで一直線 と言う事は 珍しくありません 
それは天界の霧の中に 何かがいるんですね
・・・ エイリアンのような・・・笑い・・・魔物です・・・見た事ありませんが
「魔は天界に住む」といいます
   
     魔とは何か・・・ 命の輝きを奪う働きを言います
     4っに分類します
     陰魔 ・・・・・    説明 まってて
     煩悩魔・・・・
     天子魔・・・・
     です
 
     別に 三障があります これも悪で 人を陥(オトシイ)れる働き
     煩悩障・・・・
     業障・・・・・
     報障・・・・・  
     です
 全部あ合わせて「三障四魔」といいます 我々を不幸にする 憎い奴等です
 憎っくき「三障四魔」・・・その正体 知る必要あり 
 三障四魔 等に勝利する秘策あります 今日は飛ばします  

エイリアンが何処にいるのか 
     三界の説明が必要になりますが 簡単に言うと
     (1)欲界・・・・は六道(地獄~人界)
     (2)色界・・・・ 欲を離れた 絶妙な色の物質によりる世界
     (3)無色界・・・最上の領域であり、物質をすべて離脱した高度な精神的な世界
 ここの最高処に有頂天(うちょうてん)がある
よく 有頂天(うちょうてん)になって 失敗す人 いますね
ここで そのメカニズムがわかります
 
エイリアンはこのどこかにいます 
エイリアンは人の心の中に 簡単に入り込んでくるんですよ
専門用語で(第六天の魔王)と呼ばれています
(六欲天) 等の説明も必要になるので
       エイリアン探しは後日にします 先が進まないので 

 
 天界から落ちないようにするには六道輪廻から脱出しなければなりません
更にその上を目指すのです

次の四つを四聖と言います がむずかしいのです 
 青い空と緑の大地の話はここからなのです

7)声聞界 → 絶対の論理を聞いて (ああ なるほど)と一部分を覚った命です
         知識もあり 理性もあり 直感も働く 力もある
         先に「聞く耳をもつ事ができる人は早い」と言いましたが 
         この事なのです 貴方も我慢して もう少し聞いてください 一部を悟るかも
        (更に詳しく書くから ちょっと待って)

8)縁覚界 → 自然界など、様々な物事を縁にして みずから発見し 
          みずから創造し 部分的な覚りを得た命です
          (一瞬のひらめき インスピレーション等も) 
          みずから と言う点で 声聞界より一段と深い(歓喜に近い)
          (更に詳しくは後で  先を急ぎます)
 
 ずいぶん俳諧老人をたとえとして説明してきましたが 
「何処から来て 何処へ行くのか 何のために」が判らないとか・・・
 でも簡単です 自分の家から来て 自分の家に帰るのです
 しかし「何のために」家を出たのかが判らないのです 必ず目的があるはずです
 声聞界 縁覚界は それが分かり始めるのです

 さて ここからが「何のために」の説明です
 たとえれば 舞台に上がった役者は 例外なく それぞれの役割があります
 自分の役を演技を大胆に 見事に演じるのです
 我々の一生もこれと同じです この世と言う舞台に上がったのです 
「何のために」・・・やらねばならない役割があるはずです
前の方で 生死は演ずると言ったのは この事です
この世と言う舞台に上がった以上 舞台を降りるまで 自分らしく演じ続けるのです

 見事に演じる事ができたら 拍手喝采を浴びます
舞台から惜しまれつつ去るのです 名優と称えられます
一休みした後 当然 次の舞台が待っているのです 
 もしかしたら 自分の希望の舞台へ 希望の役柄で 
出演する事ができるかもしれません 名優ですから
 更に みずからシナリオを書き みずから主演を演じる事も
できるかもしれません 名優ですから

 それとは逆に 舞台の上で 自分の役割がわからず 演技もできず 
右往左往しているだけの俳優「大根役者)は 罵倒されます
回りに大迷惑をかけて 事故を起すかもしれません 
 途中で舞台から降ろされるかもしれません 
 もしかしたら怒られて 次の舞台は 当分無いかもしれません 失業です
やっと舞台に上がったとしても 大根役者はつまらない脇役です
 このたとえが適切かどうかは わかりませんが 分かり易くと思いまして・・ 

7)声聞界の所で(一部分を覚った命)と言いましたが 
まさに自分の役割を 舞台の袖にいる黒子に教えてもらい(これを縁といいます)
(ああ そうだったのか)と 一部を思い出した俳優です(少しましな大根役者)
 でも まだ大胆に演技するまでにはいたらない状況です 

 そして縁覚界までくると 舞台の袖にいる黒子に案内され(縁といいます) 
舞台装置を見て みずからの役を思い出し 
みずから描いたシナリオ通りに大胆に 堂々と演ずるのです 
 歓喜に近いのです 修羅界では 自我意識が少し芽生えるでしたが 
縁覚界では がぜん自我意識が大きく芽生えるのです 

 「我思うゆえに我あり」です (デカルト、ニーチェ、キルコーゲ ソクラテス)
その他多くの鉄人が 生涯をかけて 我(人間)の一部を悟るのと同じです
(人は何処から来て 何処へ行くのか 何のために)
  この声聞界 縁覚界の2つを専門用語で「二乗」と言うのです

 ここまで来れば六道輪廻)からの脱出です もはや俳諧老人ではありません
 ずーと上の方の図面の解説で (生死は演ずる) と言いましたが 
みずからの意思で 演ずる。実践。行動 が いよいよ始まるのです
 本当の歓喜(大歓喜)は直ぐそこにあると思われます


 しかし ここで大問題起こるのです
洞窟から一歩踏み出すのはいかに難しいか 思い知らされるのです
 縁覚界での悟りは 一部のみで すべてではありません
 勘違いして 悟りの本質まで到達したと思い込み 
 増上慢や 利己的な性格が頭を持ち上げてくるのです
 そして 自分の奥深くに潜んでいた たちの悪い欲望が
引きずり出されてしまうのです
 これを抑えるのは不可能に近いのです


 理性を働かせ どんなに清らかかな良心をもってしても 
 命の深い深い部分(理性 愛情 良心より更に深い層)に潜んでいて   
なすすべもなく現れるのです 
  専門用語では (元品の無明)と言います

                元品の無明については 九識論で少々触れますが
                分かり易くとなると難しい  後日
 

 すなわち 聞く耳を持たなくなるのです 
  二乗は確かに知識もあります 自分は何でも知っている と言う自負もあります
自我意識も強く 力もあるので決して自分の意見を変えないのです
その頑固さは 手に負えません
 洞窟から一歩踏み出すのはいかに難しいか 思い知らされるのです
 この一歩は すべての常識の はるか先にあるのです

 先日 これらの理論を ある程度学んだらしい方が 勝手に訪ねてきたので
とりあえず お話をお聞きしました 
 (五重の相対 腫塾脱 三証 等々 初歩的な事をベラベラと)
60~70%正しく20%~ どうでも良い事で 僅か2~3%が間違っている
と感じました
 実は この僅かな狂いが 決定的な狂いなのです

 20年も前ですが 昔 若い頃 共に学び 活動していた友が尋ねてきました
当時の僅かな狂いが 今とてつもなく大きな狂いになっていました
 この僅かな狂いは何処からくるのでしょうか
元品の無明を断ち切る事ができなかったのです

 一つは 狭い範囲内での 偏見を信じてしまった
 文学 哲学 科学 芸術 歴史 政治経済 等に疎(うと)いのに
すべてを知る聖者のように振舞う 
 
 いや 分からなくてもいいのですが 何でも知っている様な思い込みは
妄信に陥り 相対して論じる事ができなくなっていました
 そして一方通行で 裏をとっていない 噂の類を鵜呑みにしている 
 口ばかり 言葉ばかりで 何故がない 引用が間違っている
 そして 決定的な一つが 違う意見を聞かない と言う事です
聞く耳を持たない と言う事です これは レベルの低い縁覚界です

 今の社会 一芸に秀でた人を称えますが それで本人が思い上がり
錯覚してしまえば レベルの低い縁覚界 以下です
 そう言う 偉そうな人 いっぱいいますね 
総体的に優れている人は本当に少ないです
 思い込みを捨て ひたすら正しく学び しがみつく思いで求め 
偽り無く我を磨き そして信を強くする
我を磨かなければ 曇ってしまいます 道を間違えるのです 
元品の無明に簡単に負けるのです
元品の無明を断ち切る利剣は信の一字です

 そして それらを見事クリアすれば その上の菩薩界に容易に登れるのです


9)・・・・菩薩界とは

 洞窟の外を見た人が 親しい友人に 
「さあ 俺を信じて 外の世界を見てみよう」
と誘っても 親しい友人であっても
「・・青い空・・? 緑の大地・・?何それ? 信じられない」と言い動かないのです
外の世界を見た人は親しい友人に
「俺がお前に 嘘をついた事が一度でもあったか 俺の言う事を信じろ」
と 繰り返し言うのです それでも親しい友人は動きません
 親しい友人は 先入観と言う色眼鏡をかけいるのです
更に 騙されたと言う 悪い噂を沢山聞いてしまったのです
 外の世界を見た人は
「お前のためだ 人生が変わるんだ こんな暗い洞窟で一生終わっていいのか」
と 強く 優しく 理を尽くし言うのです
 しかし友人は 何を聞かされても 理解しないのです 
自分の人生を否定されたと思い 反発さえするのです

 長い時間が過ぎ去ります 
 外の世界を見た人は 諦めず 外の世界を話すのです 
そのうち 友人に少し変化が現れるのです  
 友人は 考えても分からないのですが こう思ったのです
「・・あいつが こんなに熱心に言うんだから 嘘とは言えないかもしれない・・・
 とても信じられないが あいつの顔を立ててやろう・・・
 あいつになら騙されてもいいか・・・ 
少し勇気を出して外の世界を見てもいいかも・・・」

勇気とは 強がる事ではありません
一歩踏み出す事なのです

 友人は やっと重い腰を上げたのです「・・お前を信じてみよう・・・」
そうです 青い空と緑の大地 を信じたのではありません
友人を信じたのです


 信は分からない事が分かるようになる それは信から知恵が沸くからです
どんなに多くの知識を有していても 知恵がなければ その知識は生かされません
 知恵は信から生まれるのです その逆の 不信は 簡単な事でも分からないので

 洞窟の外へ一歩出た友人は 真実を見て 歓喜したのです
一瞬で外の世界を学んだのです 
 歓喜した友人は言いました
「ありがとう でも・・何故 もっと早く教えてくれなかったんだ・・・」
この場合 友人が(縁)と言う事になるのです
縁について この先で触れます

 外の世界へ一歩踏み出た友人は決意します
「・・・この外の世界を知らない人達に 今度は私が教えなければ・・」
 そしてその友人は歓喜したまま 再び暗い洞窟に戻るのです
 今度は 外の世界を知らない洞窟の多くの人達に 
みずから学び歓喜した 外の世界を語るのです
カントは
  「人間にとって目的であるとともに 義務であるものは
  自己自身の完全性と他人の幸福である」 と言いました

 信ずる 行動 学ぶ ができたのです すなわち大歓喜です
これを「悟り」と言うのです

 上の方の表で 信ずる 演ずる 学ぶ ができれば歓喜になると示しました
この事です (信・行・学)です
信じてから 行動です そして学んだのです
 先に学ぶのではありません 順番を間違えないようにしましょう
学べば更に信じる心は強固になり 知恵が沸き更に果敢な行動へと繋がるのです

 4Kテレビを見るのに 電磁回路 電子回路を勉強して納得してから 
スイッチを入れる人はいないと思いますが それをやれば何年もかかります
取り扱い説明書を 信じて スイッチを入れると言う行動に移るのが普通なのです

信そして行そして学です

9)の菩薩界とは この人の事を指しているのです 
 当然 非難されます バカにされます 誰も話を聞きません 
しかし真実を語らないわけにはいかないのです
ここで見事に 俳諧老人ではなくなるのです
(何のため)を悟った瞬間です

 菩薩の顔は優しいのです 真実の世界を見た者にしか分からない
歓喜の命があるからです
 
 人々を救済しようとする 慈悲の命が勇気の行動となるのです
暗い洞窟にいる この人達を救うのは自分だと決め 使命感が湧くのです
 あえて 暗い洞窟で 皆と一緒に生活をするのです
 この人は 周囲の評価 状況に一喜一憂する事はありません
地位や立場 経済力 容姿等で一喜一憂する事もありません
人を恨む事も憎む事もありません 関心を得ようと策に走る事もありません

少々 別の観点から言うと
 自分の特技を活かし 知恵を働かせ人々を救う人を(文殊菩薩)
慈悲の力で救う(弥勒菩薩)音楽の力で(妙音菩薩) 医療で(薬王菩薩)
 学理で(普賢菩薩) 政治経済で(観音菩薩)
菩薩の命は歓喜なのです
 前の表で すべて歓喜に至る事を記しましたが 
この事なのです
ちなみに 菩薩の数は 数えきれません 


 座禅を組んで じっとしている菩薩などいません
滝に打たれて 修行している菩薩などいません
のんきに 札所参りなどしている菩薩などいません
冠婚葬祭に明け暮れる 菩薩などいません
時を最大に生かしてこそ 命は輝くのです

 菩薩は 多くの人の中に みずから出向き 言葉巧みに語るのです
語らなければ 何も始まらないのです
人を救うのも言です 邪悪を砕くのも言です 時代を動かすのも言です
 人々の苦しみを 我が苦しみとして 語るのです慈悲の表れです 
 慈とは いつくしむ 悲とは 共に悲しむと言う事です
慈悲とは励ましの事です
 自分の仕事をしながら 家族を養いながら 
そしてみずからの病と闘う事もあるのです


 飢えた人に食を恵んであげるのは 小さな善です
飢えた人に仕事を教え みずから食を得る方法を教えるのは  中の善です
正しい思想を教え 人生の転換を促し 蘇生させるのは 大きな善です 
 その影響は他にも及ぼすからです 菩薩はこれをやっているのです
そして 世の不正に怒り 誰よりも行動しています

 当然大功徳を受けるのです 
 功徳の功とは悪を滅する事で 徳とは善を生ずる事を言います
悪と戦う事の重要性を説き 悪と戦わなければ 功徳はないのです

 ありがたい仏像を いくら拝んでも 功徳はありません
どんな荒行をやって修行しても 功徳はありません
結果だけは出ないのです この世は科学ですから
 この地を天国にするも地獄にするも そこに住む人で決まるのです
極楽(理想の国)も地獄も遠い所のあるのではありません
我が家もそこに住む人により 修羅場ともなり 安息の場にもなるのです
道理です
 この世に数ある思想 哲学 宗教を 正しく見極める基準の一つに
人間を強くするのか 弱くするのか
人間を善くするのか 悪くするのか
人間を賢くするのか 愚かにするのか
があります
人間を 弱く 悪く 愚かにする思想 哲学 宗教のなんと多い事か

アインシュタインは科学なき宗教を批判しました
しかし 宗教なき科学も批判しました
彼は科学にも限界がある事を知ったのです
この世には科学では説明できない事があります
 残念ながら 日本人は科学と宗教を分けています
同じなのです 科学と宗教は一体なのです

少々長い引用ですが
加來道雄(理論物理学者日系3世)科学者は偏見をもつべきでなない
信じられない現象も受け入れなくてななりません
唯物論で人間を理解し、唯脳論で解決策を探すだけの科学では、
たとえ国家を挙げた研究でも限界にぶつかってしまうだろう。科学の未来は、
宗教と融合を目指す中に開かれるはずだ
と言っています  九識(くしき)論で更に詳しくと思っています

 日本人の殆どは無宗教となっているように見えます
それは 指導すべき聖職者や 僧侶が特権階級のようにふるまい 
宗教を独占し ビジネスにし 堕落したのが原因だと思います

 しかし日本人の多くは
社会の秩序を信じ 道理を信じ 善意を信じ 行動しています
人種差別をしない マナーを守る 親切
これは日本人の誇れる宗教に見えるのです
これは仏教の思想です
日本人は長い間 養われてきた仏教の考えが 
現代になっても まだ死んでいなかった と言う事です

聞いた話ですが 「アメりカ等のキリスト教社会の若者に
宗教別れが進んでいる」 との事です
既存の宗教への矛盾 弊害 等に気が付きはじめたのかもしれません
先ほど(科学と宗教は一体)と言ったが 論理的な説明が不完全でも
最後は結果を見るしかないのではないでしょうか


 しかし 人間は宗教なしでは生きられないのです
 トルストイは人間は宗教なしでは生きられない理由を
第一に 宗教のみが善悪の決定を与えるからだ
第二に 宗教なしでは人間は自分のしていることが善いか悪いかを
     知ることが決してできないからである
第三に ただ宗教のみが利己主義をほろぼすからである
第四に 宗教のみが死の恐怖を打ち消すからである
第五に 宗教のみが人間に生の意義を与えるからである
第六に 宗教のみが人間の平等を樹立するからである
と言っています
キリスト教には当てはまらないかもしれませんが


 話がそれてしまいました 本題にもどります
 究極の菩薩 現代の菩薩を (四菩薩)と言います 
名前を①上行(じょうぎょう)菩薩・②無辺行菩薩・③浄行菩薩・
④安立行(あんりゅうぎょう)菩薩といいます。

 すべて(行)が付きます 実社会の中で行動するのです 
衆生を幸福へ平和へと導く(リーダー)の事です 
相関性を認識する 知恵
差異を尊重する  勇気
(異なる物同士が組み合わさるのを「和」と言い 新しい物を生み出します)
人々と同苦し連帯できる 慈悲を持っています
地涌の菩薩と言います
 この地涌の菩薩は 地涌とあるとおり大地から涌いて出たのです 
 大地とは 究極 深理 基本 極地 大歓喜 等の事です
菩薩の人数は 数えきれません


 そして この社会で活躍する事を 願っていたのです 待ち望んでいたのです
しかも 最も汚れた時代に 苦悩する人々のど真ん中に 
不動の覚悟と誓いを堅持し 出現する事を願っていたのです
願って 願って やっと願いがかなったのですi
 そして ついに その時がやって来ました
 
地涌の菩薩は喜び勇んで 小躍りしながら 出現したのです
大地から涌いて出たのです だから「地涌」と言うのです
 でも 最初っから自分が地涌の菩薩であるとに
気が付かないのが普通です
しかし(縁)に触れ一瞬で 思い出すのです
(我 地涌の菩薩なり)と 使命も 誓いも 覚悟も


 ・・・憧れの理想卿 最終目的地・・・・
それを思い出すのです 自分そこに居たのではないか
自分はそこからここへ来たのではないか
 目的地だと信じていたが 実は出発地だったのではないか
透徹した文学者ヘルマンヘッセは言う
「君が求めている光は 君自身の中に宿っている」 と

 はっきりと思い出した 自分の住所は「輝く太陽の 青い空と緑の大地」だ
そこから来たのだ 暗い 冷たい 偏見と苦悩渦巻く洞窟に
 それも自ら願い 誓い 勇んでやってきたのではないか
一瞬の出来事 Uターン現象 命の革命 「自然に仏界に至る」の核心
もう迷いはない 恐れるものはない 使命を果たして 堂々の凱旋だ
ゲーテは
幸福とは 「人生における自分の使命を 喜んで果たし行く中にある」
と言いました
まさに 大歓喜の人生の始まりです

 そして やがて 過去 現在 未来 (三世)を悟るのです
 生死の二法(妙) 因果の理法(法)を悟るのです
生命の究極の一法を 宇宙の根本の法則を 我即宇宙 を体得するのです
永遠の生命を 清浄そのものの、何ものにも汚されない法則を悟るのです
生老病死がそのまま喜びになるのです 歓喜の中の大歓喜に至るのです
成住壊空(じょうじゅうえくう)の空を悟るのです
 九識心王真如の都(九識論で説明)に至るのです
 最後の十番目の仏と言うのはこの人の事なのです

仏の異名に 道を知り 道を開き 道を説く とあります

 死んだ人を仏とは言いません 大きな間違いです 勘違いです
これは江戸時代 寺請制度を利用した 坊主が
残された遺族を喜ばせ 金を取るための お世辞です
死んだ人が仏になどなりません 

仏は菩薩の戦い続ける命の事です
 仏像を見れば分かりますが 仏は皆 蓮の花の上にいるのです 
原因と結果が同時に現れる事を象徴しているのです
 蓮の花は 咲くと言う原因と同時に 結果と言う種ができるからです
すなわち 奇跡とか 偶然とか 例外とかは絶対ないのです

 わかりやすく言うと 女を泣かせば 今度は女に泣かされる
人のものを盗むと 貧乏になる 人を騙(だま)せば 人に騙される
人を殺せば 今度は殺される
 物騒な例え話で申し訳ありませんが 
100人殺せば 100回殺される
と言う事です 因果応報 です

宿命(運命)は 原因による結果 であるならば 変えようがありません
原因と結果は科学ですから 
 しかし それでは 何もかも決まっているから 希望も努力も意味がないのでは??
と考えてしまいがちですが そこが問題です

この世は因果応報でも そこに縁があれば 結果は変えられるのです
落とした卵は必ず割れますが 下にクッションを置くと割れません
そう 其のクッションこそ縁なのです
暗い洞窟から 外の世界にさそってくれた友人こそ 縁なのです
舞台で 自分の役が分からない袖にいる黒子が アドバイスを出す それが縁なのです

古来より その人の運命の捉え方に二つの考えがありました

一つが 宿命論
どんなに努力しても運命は変わらない
自分の境遇をうけいれるしかない
あきらめを植えつける   と言う考えで
結局 希望を奪う考えなのです

もう一つが 偶然論
どんな行いをしようとも 結果には関係ない
人生を無軌道にし 人々を傷つけても 意に介さない
これも 問題の考え方です

しかし 三つ目の考えがあります
因が同じでも そこにどのような縁が結びつくかにより
一人一人に現れる果は異なってくる
と言う考えです これは仏教の考えです

その仏の台座には必ず蓮の花があります
 この 蓮の花は どんなに汚れた社会でも 
その汚れに決して染まる事がないと言う象徴なのです
 更に 社会の泥沼が深ければ深いほど 
蓮の花は大きく咲くのです
 仏の慈悲は キリスト教の(愛)とか 孔子の(仁)とは違います
慈悲の非は「ともに悲しむ」と言う意味があります
 仏は多くの人々が生活している場で 苦楽を共に一緒にいるのです

 その居住する所は大地です 天上界でもなければ 
西の彼方の極楽でもありません 
仏は 意(こころ)惜しまず 身を惜しまず 口を惜しまず とあります
仏は この悪因悪果を断ち切る 利剣を 妙薬を 羅針盤を教えます
 自分自身が花を咲かせるのではなく 種をまいて 一生終わるのです

 山奥で修行している仏はいません 
赤や紫の袈裟を着た ど派手な仏はいません 
自分の幸せのみ 願っている仏はいません
座禅を組んで 黙っている仏はいません
豪邸に住んで 贅沢な生活をしている仏はいません
政治経済に無関心な仏はいません

 使命感 責任感は行動に表れるのです 
誰よりも語り 誰よりも平和のための活動をするのです
精神の土壌を耕し 豊かな幸の花園にします
喪失した精神性は 人間を野獣にします 

 無理解のために 仏は必ず大難を受けるのです 
嫉妬のゆえに 誰よりも多くの批判を受けるのです
それが悪世において 正しいと言う証明なのです
 多くの人々に 人間としての模範的な生き方を教えるのです
 私達の故郷は地球 国籍は世界 人種は人間であると 
地球民族主義を掲げ
世界的規模で 万年の先を見据えて
 ガンジーは 偉大な運動が経る五段階
「無関心 嘲笑 非難 抑圧 を突き抜けて 尊敬の段階に入る」
と言いました
 ガンジーの言う「尊敬の段階に入る」
のは200年先でしょう

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 ここまでが生命の10個の個別化(グループ別)の原理です
十界論 と言います
 これは例外なく 誰でも持っている命なのです
では我々は どうすれば 最高の仏の命を表す(湧現する)事ができるか
その鍵は「信ずる」の一点なのです

 駆け足で書いたので大雑把です 更に説明不足はご承知ください
叉 変な たとえが多くて 正確さに少々(かなり)欠ける所もありますので よろしく
又 書き足し あるいは削除しながら 更に分かり易くと思っています
 

次に(十五具)論です

 先の十界論は 個別に切り離して解いた理論です
一瞬を無理に止めて解き明かしたのです
生命の1コマ 1コマを 分かり易くするためです
そして 少しずつ動かしてみたのです 分解写真のようにです

 でも実際の生命は 一瞬たりとも止まることなく 動き続けているのです
これが ここからお話しする 十界互具論です 生命の流れを立体的に
二次元 三次元的に 掌握するための方程式です









 九識(くしき)論 (生命の深層の実体)